(主にゼロ年代前半の)音ゲーとJ-POPの繋がりを探る


ずっと書こう書こうと思っていたところにどんぴしゃな記事が出て来たので、僕も書くことにしました。音ゲーとJ-POPの繋がりについて。

ポスト渋谷系にみる、音ゲー楽曲と邦楽シーンの影響関係(中半) – ダストポップ

上記記事では2000年前後のポスト渋谷系・アキシブ系みたいなシーンのミュージシャンが多数参加していることについて書いていて、結構な資料だし極めてきちんと書かれているので同じ事を書いても仕方ない。よって僕はもう少しマクロ視点から話をしてみたいと思い筆を執った次第。

先に定義しとくけど、ここで扱う音ゲー(音楽ゲーム)は、その代名詞的存在でもあるKONAMIのBEMANIシリーズの、草創期~2000年代半ばあたりの話が中心になります。なぜかというと僕がそれ以降これらのゲームをあまりやっていないから(笑)。それから他メーカーのゲームに関しては基本的に除外しています。他メーカーからの商品はバンダイナムコの「太鼓の達人」以外は不発だったので基本的に省略。太鼓の話なんかは後半の一般化したくだりで読んでもらえると良いんでないかな、と。とはいえこの時期に色々固まってきているので充分語る価値あると思うし、適宜分かる範囲で現代の話も織り込んでいければと思います。なので現代感覚から色々ケチ付けくなるかもしれないけど、せっかくなんでむしろ話を広げる方向でお願いしたいです。

この記事では3つのテーマについて話をします。「ミュージシャンの受け皿としての音ゲー」「音ゲーからJ-POPのフィールドへ行った人」「音ゲーの音楽受容への影響」の3点。

1:シーンを下支えした音ゲー(特にポップンミュージック)

初代beatmaniaが稼働したのは1997年。そして初代pop’n musicは翌1998年に稼働開始した。因みにDance Dance Revolution(DDR)も1998年に稼働し、草創期はこの3種のゲームが中心となってムーブメントを生む時期だ。自分自身この頃のシーンは後追いでしか知らないのでざっくり言うと、「ディスコ→クラブ」の流れをbeatmaniaが、パラパラ・スーパーユーロビートなどを当時ヒットしてたアゲアゲ系楽曲を「Dancemania」等からDDRが引っ張り、そしてそういった物から縁遠い普通のポップス好きのためにポップンは用意された。メインキャラクターであるネコとウサギの「ミミ・ニャミ」はどう見てもPuffyを模しているとしか思えなかったし、基本的にファンシーで親しみやすいデザインを思考しており、他の音ゲー(後発の物も含む)からは異彩を放っている。

そして、音ゲーの重要要素である楽曲だが、大部分をEMIのコンピレーションであるDancemaniaから引っぱってきたDDRは別として、基本最初は殆ど内製である。いやまあゲーム会社が作るゲームの音楽だから内製するのは当たり前ではあるのだが。

ただし、beatmania初代プロデューサーであった南雲玲央が、ポップンミュージックを作るにあたって高校の同級生だった杉本清隆を呼んだあたりから様相が変わってくる。

彼はそのままコナミに入社するのだが、その人脈等から渋谷系界隈のミュージシャンが呼ばれる、という流れが出来てくる。さらにpop’n5あたりからwacこと脇田潤(早稻田大学MMTという沖井礼二・土岐麻子を輩出した音楽サークル出身者)が加入したことによりそのポスト渋谷系ミュージシャンも含めて流れは加速。具体的には下記のミュージシャンがオリジナル曲を提供している。

  • 木田俊介(現在は自身のユニットであるLittle Lounge Little Twinkleや映画音楽を中心に活動)
  • Three Berry Icecream(カジヒデキが所属していたバンドBRIDGEのキーボーディスト池水真由美のソロプロジェクト)
  • 常磐ゆう/ risette(リーダー森野氏はマキタスポーツのサポートも)
  • 沖井礼二(最初に参加したときのwacによるコメントが粋)
  • 青野りえ(土岐麻子の同級生、沖井礼二のソロプロジェクト「FROG」で大半の曲のボーカルを担当)
  • 中田ヤスタカ
  • Eel
  • エイプリルズ
  • Plus-Tech Squeeze Box
  • スチャダラパー

そう、実は中田ヤスタカもかつてポップンミュージックに楽曲を書き下ろしてたことがあるのです。

時は2003年。Capsuleとしては「CUTIE CINEMA REPLAY」というピチカートフォロワーな感じ全開のアルバム(念のため言っときますと良い作品です)を出していた頃(なのでこの「STEREO TOKYO」もまさにそんな感じの曲)。そしてこの曲を収録したpop’n music 10が稼働開始した2003年8月6日は、Perfumeとのコンビ作品第1弾「スウィートドーナッツ」がリリースされた日でもある。つまり彼はこの頃はまだ知る人ぞ知るくらいの存在だった。因みにこの時は「polyphonic room」というアーティスト名義を使用しているが、その年の秋にリリースされたCapsuleアルバムの名前がズバリ「Poly Phonic」だったり。

人脈という要因はあったにせよ、この時期に渋谷系のシーンが縮小していた(以前も書いたけど1990年代半ばから縮小しはじめ、ポップンミュージック第1号稼働の1998年にはブームは完全に終わっていた)ことも背景としては見逃せない。最近一部声優の楽曲にポスト渋谷系人脈がコミットしているように、かつては音ゲーにコミットしてもいたわけだ。単純にお金があるところがシーンの受け皿になっていたということだが、シーンが決して断絶していたわけではなく、90年代と10年代を繋ぐ役割の一翼を音ゲーが担っていた、とも言えるのではないか。

※beatmania/beatmania IIDXがクラブミュージックに果たしていた役割、というのも同様にあるみたいなんだけどそこは僕は全くテリトリー外なので割愛します。あとBEMANIシリーズの誇るマルチコンポーザーTOMOSUKEの話もしたかったんだけど字数足りないのとこの流れで上手く話せないので割愛。

 2:音ゲー出身のミュージシャン

2000年代になって音ゲーが音楽ジャンルの一つとして定着したところで、そこで使われている音楽自体を押し出しても良いんでないかという流れが出てきた。まずはサウンドトラックへのロングバージョン(音楽ゲームは回転率を考慮して1曲の長さを1分半程度にしていた。ロングバージョンというのは普通のポップス的な3〜4分の物)の収録。そして、そこで歌ってるミュージシャンの単独CD発売である。しかし実際には新谷さなえ(元々コナミの受付嬢だったが歌唱力を買われポップンの歌姫に)もBeforU(beatmaniaシリーズのためにオーディションで結成されたガールズグループ)も、セールス的にはたいしたインパクトはなかった(近年はあさきのアルバムが万単位で売れるなど、状況は変わっているけど)。一方、コナミで音ゲーに携わってた人が普通にJ-POPのシーンで活躍していたりする例が実は存在している。ここでは、そういう方を2名挙げる。

平田祥一郎

通称ヒラショー前述の新谷さなえと組むことが結構多かったりしたけど、音ゲー界隈でみんな知っている有名曲を作ったというわけではない。どちらかというと通好み感があった。

むしろ退社後に作った曲の方が(音ゲーマーにも)有名だったりする。一番有名なのは間違いなくSMAPの「Dear WOMAN」。

このほかにもハロプロ楽曲の編曲にたくさん参加しており、モーニング娘。「君さえ居れば何も要らない」、℃-ute「都会っ子 純情」「THE FUTURE」、スマイレージ「夢見る15歳」「ショートカット」など多数楽曲の編曲を担当している、今もJ-POPの最前線で活動しているクリエイターである。

佐々木博史

2000年代前半のGUITARFREAKS・drummaniaのコンポーザーの中で最も人気があったのが彼。ピアノ主体で緻密かつ荒々しいプログレッシブロックが得意で、今でも人気のある曲が多い(楽曲特性上高難易度だから、というのもあるけど)。

人気絶頂とも言える時期にコナミを退社ししばらく表には出てこなかったけど、現在は嵐の楽曲の編曲を主に担当している。最新シングル「Sakura」も彼の手による物だけど、2014年の作品である「誰も知らない」はイントロにかつての手癖がかなり残っている。例により動画が少ないのと当該部分を取り出しやすいため、ピアノコピーしてくれた動画を掲示する。

もう10年以上経ってるから時効だと思うので言うけど、drummaniaの初期プロデューサーだった桜井俊郎さんがコナミを退社しソロで音楽活動を始めたときに佐々木さんがサポートで来てて、それが大学の近くのライブハウスだから何度も会ったことがあるんです(打ち上げにも顔を出していた)。なので実は退社すること自体も結構前に聞かされていたりという思い出。それもあって佐々木さんの動向は結構気にしていて、ご健勝そうで何より、という感じ。編曲だけじゃなくて色々出てきて欲しいけどもうちょいですかね。

因みに桜井俊郎さんは現在「Safety Shoes」というバンドを結成して活動している。

というわけで、「J-POP→音ゲー」のように「音ゲー→J-POP」というルートもある。みんなコナミ辞めてるけど。

 3:音楽受容に音ゲーが果たした役割

さて、冒頭に触れた記事について沖井さんがこんなことを言っていた。

これは確かにあるなあと思うので、プレイヤーであった者としていくつか考えてみたところいくつか思い至ったところがあるので、それについて書いてみたい。具体的には、「第2のカラオケ」と「映像と音の結びつき」。

版権厨と第2のカラオケとしての音ゲー

今もあるのかよくわからないけど(多分あるとは思う)、ゼロ年代初頭の音ゲーには「版権厨」という言葉があった。版権を取得して収録した曲(要は洋邦のヒット曲なんだけど、専ら邦楽の版権楽曲を指す)ばっかりやってゲームオリジナル楽曲に見向きもしない人のことを揶揄する言葉だ。特に僕がよく遊んでいた2001年〜2005年辺りはどこのゲームセンターに行ってもdrummaniaの筐体内選曲ランキング1位はほぼ間違いなく「天体観測」だった。

ちょっとゲーム的な話をすると、「天体観測」自体は<四つ打ちエイトビートが基本の曲でゲーム的には余り面白い曲ではない。なのになぜそれをやる人が多かったのかというと、やりこんで上手くなっていろいろな曲をやっていく「ゲーマータイプ」の人とはゲームをプレイするベクトルが全く別の人達がいたということだ。ゲームセンターに友達と来て、ちょっとできるところ見せるためにみんなが知ってるヒット曲を演奏してみたりする。そんな人達は確かにたくさんいた。

ここで2013年の名著「ソーシャル化する音楽」から、第1章の「ガジェット化する音楽」において音ゲーについて記述された部分を引用する。

「ボタン操作、あるいは映された印の通りの入力によって流れる画面といかに同期するかにポイントが置かれている。あらかじめ用意された音楽にどう合体するかがテーマとなる音楽ゲームは、演奏することで初めて音が発せられ、それによって自己を表現したことになる図式とは異なるものだ。」

ここを改めて読み返して思うのは、「これ採点機能・音域ガイド付きのカラオケと同じだよね」ということ。そう、カラオケと同じような「音楽を媒介としたコミュニケーション」の一つの形として音ゲーというものがあったのではないか、ということを考えている。つまり、「第2のカラオケとしての音ゲー」だ。この流れは、当初はアニメ主題歌などの版権曲ばかり入れていたポップンミュージックが2010年代以降Perfume・サカナクション・ももいろクローバーZ・きゃりーぱみゅぱみゅ(イメージ合ってるけど)等を収録するようになったり、jubeatやReflec Beatなどの新しいタイプの音ゲーの版権楽曲比率が高いことなんかからも裏付けられる。「若者のカラオケ離れ」みたいなことはよく言われるけど、それは単純に音楽を媒介にしたコミュニケーションが色々出来てて(レジャーとしてのフェスもそうだ)、その中の一つに音ゲーがある、というだけなのではないかな、とか。

 映像つき・キャラつき音楽という用意されていた道

音ゲーは基本ゲームセンターでの展開・画面などは周りの人にも見えるようになっていた、という二つの理由で、ビジュアル的にも何かしら目を引くための工夫なりをする必要があった。そこでbeatmania IIDXとGUTARFREAKS & drummaniaでは曲に必ずMVがつくようになっていた。初期は容量の制約等でFlashなどを使った簡単な繰り返し物やイラスト物が多く、そのインパクトで覚えられている物も結構多かったりする。そして、ポップンミュージックでは個別楽曲にマスコットキャラクターが割り当てられている。毎度全キャラ新規に書き下ろしされるわけではなく、同じキャラクターが次の作品で別の曲を担当する、というようなこともあるために、楽曲の中身だけでなくどのキャラクターが担当するかにも人気が左右される状況だったりもした。

今だから思うのは、こういった「映像やキャラとの結びつき」がこの後ニコニコ動画界隈が盛り上がる下地になったのでは?ということ。冒頭に挙げたブログの続きではBMS・同人界隈の話が出てたけど、音ゲーエミュレーターで楽曲を発表していた作家達はやはりその構造に慣れていたと考えられるのでは無いか。そしてユーザーもまた、映像やキャラクターと音楽が結びついた状況に慣れていたのではないか。若干飛躍している気がするけど、そんなことを考えたりする。

そうすると、やはり所謂音ゲーがある一定以下の世代の音楽受容に相当な影響を及ぼしているんじゃないかなと思えてくる。今どうなっているのかというのは全然ウォッチしていなくてわからないのだけど、誰か広げて言ってくれればなあとか思ったりしている。笑